1991年■ピンでやっていくにあたって(アイドルからの転身)
36歳の頃、ヒッピアップから離れて、ひとりでやっていこうと思ったアダモちゃん。そうは思っても悩んだ、悩んで悩んで悩みぬいた。ここまでの芸能界を振り返ると3人で漫才をやって売れた、売れてアイドルになった。お笑いをやっているのにアイドルになった。アイドルのヒッピアップは行動やコメントに制約が増えた。これがものすごく重荷だった。他の共演するグループは「笑いのためなら何でもアリ」の姿勢で体を張って勝負してくる。ヒップアップは人気では勝っても笑いでは負けていた。やりたいことをやれずに負ける、アダモちゃん、それは悔しかった。そこで、ピンでやっていくにあたって、「島崎俊郎は日本一最低のタレントになろう」と本気で思った。今まで築いてきたヒッピアップのキレイなイメージを壊しにかかった。最低の仕事(笑いのためなら何でもありの仕事)を受け、その仕事が次の仕事を呼び、広がっていった。最低の仕事って芸人とっては勲章なのです。
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